病気之事

同21日に白石を立給ひ、一両日相過道中より異例の心地出給ふ。然りといえども、大相国家康公二十一ヶ年の御年忌、其年に相当り、公方家光公日光山の堂々とも御建立に仍て、政宗道中より直に日光へ、同二十五日に社参なれば、公家衆下り給ひ、其日の御参詣、折節神前に於いて猿楽ども御法楽の能始りければ、政宗は先僧正の許へ入、万事終て後社参の処に、今度御堂修造惣奉行伊丹播磨守案内し給ふ。かかりけるに、宮仕神楽を奏し、政宗向拝し給へば、宮人御幣を三度礼し、供饗に銚子を取添へ、神前より持参して、三々九度を進め参らせけれども、気色は弥増にふさぎ給へば、急ぎ下向と思はれけれども、播磨守「此御山の御造営一宇の御奉行、某に仰せつけられ、このごろ公方家光公成らされ給ひて、御感の旨某式迄冥加に叶ふ、御苦労ながら迚も此一山を御見物有て、公方公思し召し立たるるに、ヶ程の御建立、神前に於いて御褒美ならば、御一言にて御感の上、憚りながら御序に御取合せ下さるならば、某式も運を開き候」迚、奥の院迄案内し給ふ。尚も機嫌重かりけれども、和利なく上り給ふ。庭前の石壇今一つにし給ひ、上へ立給ふとて、倒れ給ぬ。起こし参らせければ、右の指の脇少し切て血の出るを包ませ、御堂の前に立給ひ、「心静かに拝し奉るべし、貴所は先下向あれ」と宣ふ。播磨守やがて下向し給へり。政宗御堂の庭に立て、「是より下向あるべし、倒れまじき処にて、倒れたるは、日光へも此度限りの御告とみへたり、方々見物迄になさん」迚夫より今市の宿に帰り給ふ。去ば爰に不思議也事にや、志賀栗毛といふさしも秘蔵なる馬、其日の引替となりて、御山の下馬に引立ければ、一段心地よげなる馬の、如何有やらん、二三度嘶き俄に倒れて死入ぬ。薬を用ひ本気となり、夜に入今市へ引返しけるに、少しも病るけしきなし。尓るに彼馬政宗病気の刻より、食事を留て死しけるは気象なりとぞ人申ける。又今市へ着給ひ、行水の上りに、髪を結せ玉へば、座敷の庭に樅の木有へ、後の方より鳩の如なる鳥飛来て彼樅の木に羽を休めけり。南次郎吉・加藤十三郎側に有けるが、見咎めければ、色々様々の毛色、中々言語に及ばず。実に唐鳥とも言うべきや、余りの不審さに其の旨申しければ、政宗見給ひ「あれこそ鶉とて、容易里近く来るは稀なり」と宣ひも果たさずに、飛立日光の方へ行、其跡を見れば煙の如くなるもの、政宗の後より樅迄引はへ、樅より又鳥の跡を慕ふ。二人の小姓忰なれども、さすが二世の供迄、勤ける者どもなれば、兎角のことをも言わずして、逝去し給ふ後、是を最後の物語になす。四月二十八日に江戸へ着給へば、二十九日の辰の刻に松平伊豆守上使と為る、炎天の折柄上着、殊に道中より常ならず病気の旨其聞へ到て、笑止の旨、御諚にて病体能々承れと宣ふ。伊豆守へ対面有て、「先上意の趣勤て浅からず、やや久しく尊顔拝し奉らず折節、明日は朔日なれば、登城をとげ、御礼申し上げるべし」と御請にて、翌日卯の刻より登城し給ひ、御目見得相過、午の刻に下着し給ふ。尓して、其日に又安部豊後守上使にて、御鷹の鳥を下され、「惣じて詣大名衆、毎年四月替りと定め給ふを違えずして、左程の病気に押て上り給ふこと、其程痛入思召されけり、気色弥宣わず、養生の為驢庵法印を御直に、仰せつけられ相構て明日より取詰るべきこと肝要」との上意なり。

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参照

[sd-script] 『政宗記』12-1:病気の事

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