天正17年11月4日 伊達成実書状

急度啓入候。仍於陣中者、相互に疎遠の体、過ぎられ候。御心もとなき次第に候。随って黒河・須賀川より御陣へお届けとして使い差し越され候。元安・雪斎御坐なく候よし候間、我々相憑み候えども、御開陣の上、是非に及ばず候。内々其方へも書中御坐候よし、彼方申され候間、其の首尾に任され、其元御取成しの儀、万々憑み入る迄に候。心諸重ねて、恐々謹言。

(天正17年※)霜月4日       成実 花押

遠藤文七殿

※ 武水は天正13年じゃないかなぁと思います。詳細はスクロール。

適当意訳  

急いで啓します。陣中では相互に疎遠のまま過ぎられ、御心もとない次第です。それで会津・須賀川から御陣へお届けとして使いの者を差し越されました。仲人である元安も雪斎もおられなかったので、私を頼んできたのですが、お屋形さまは陣をあけられていたので、どうしようもありません。内々その方へも手紙をだしたとあちらは言っておりますので、その行きがかりのとおり、そちらでのお取成しをくれぐれもお頼みします。重ねてお頼みします。恐々謹言。

ちょっとたわごと

引用元の「伊達氏重臣遠藤家文書・中島家文書 ~戦国編~」(白石市教育委員会刊)では、「随而自黒河須賀川御陣へ」の部分の注に、「会津黒川城から岩瀬郡須賀川への進軍をさす。天正17年11月、伊達政宗は須賀川の二階堂氏を攻撃し、降伏させた」とあります。
この注からは「黒河より須賀川御陣へ」と読むように感じます。
一方で同書の読み下し文は「随而自黒河・須賀川御陣へ」と間に「・」を打っています。これだと「黒河・須賀川より御陣へ」になります。

もちろん、原文には句読点も「・」もないので解釈するほかありませんから、当サイトでは「黒河・須賀川より御陣へ」を採りました。

そうすると、あれ? 天正17年て?? 
二階堂氏の降伏は10月26日です。この書状は11月4日。もちろん戦後処理でこのころまでわたわたしていることは十分考えられます

「進軍」とは矛盾しますが、政宗は須賀川にいたわけですから、政宗のいるところとして「須賀川御陣」と し、黒川留守居から政宗に使いを立てたとも読めますが、成実の敬意表現や宗信に「御取成しを頼む」ことからは、他家からの使いと考える方が私にはしっくりします。
また、「御開陣」とあり、政宗が陣払いしたことが書かれていますが、10月26日に須賀川城を落としてから12月に会津黒川へ帰るまで、政宗は基本的には須賀川に逗留しています(治家記録)。
黒川留守居が亘理元宗・留守政景という重鎮を取り次ぎにするということにも違和感があります。

政宗の陣に使いがきて、取り次ぐはずの亘理元宗と留守政景は不在。やむなく成実が受けたが、直前に政宗は陣払いしていた。つまり、政宗と成実はこの直前まで同じ陣にいたわけです。
10月下旬から11月上旬にかけて、政宗と成実が同じ戦にいたとなると、かなり限られてきます。
一つは「伊達氏重臣遠藤家文書・中島家文書 ~戦国編~」が比定する天正17年。須賀川を降伏させたとき。
実はもう一つ該当する年があります。
それは天正13年。人取橋合戦の直前です。しかもこのとき、二本松を囲んだ政宗は雪に阻まれ10月21日に陣払いをして小浜へ帰っています。

「黒河・須賀川より御陣へ」と読み、天正13年とすると、 会津芦名と須賀川二階堂が政宗に対し同じサイドですし、「御開陣」も10月21日の陣払いに該当でこれもしっくりします。

そういうわけで武水はこの文書は天正13年のものと考えています。

ただ、ひっかかるのは、遠藤宗信は天正13年はいまだ13歳(1572出生説)。
10月11日、遠藤基信が殉死の10日前に書いた証文には「せんくまどの」とあり、まだ元服前なのですね。。 「内々其方へも書中御坐候よし」は遠藤基信宛に手紙が来ていたとしても、13歳の少年に「その流れでヨロシク!」というのもちょっと違う気もしています。
遠藤宗信は1568出生説もあり、こちらだとこの天正13年には17歳。成実が仕事をふるのは不自然ではないですが、今度は逆に「え?17なのに元服してないの??」という疑問がでてきたり……。

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