小手森城の合戦

天正13年8月23-27日

 天正13年8月。大内定綱の臣・青木修理の内応を得た成実は、その旨を政宗に注進。
政宗は直ちに大内退治の軍事行動を起こす。

 まず、小梁川盛宗・白石宗実・浜田景隆・原田宗時を成実に遣わし、成実はこの4将を苅松田(青木修理居城)の近所・飯野に在陣させる。成実自身は立子山に布陣。
政宗も8月12日には福島へ馬を出す。
ここで塩松の絵図を青木修理より得た政宗は、川俣へ陣を移し、薇ケ平で田村清顕と対面。ともに大内定綱が籠もる小手森城を攻める。23日に攻撃開始予定だったが、雨天のため開戦は翌24日となった。

 さて、小手森城を伊達・田村軍が包囲したが、大内の援軍に駆けつけた芦名・畠山の勢が両軍を包囲。
大内勢は城に籠もって一歩も出ず、当初合戦は先陣となった畠山勢と伊達勢の間で展開した。
田村勢は東から、伊達勢は西から働くが、間に大山があって両軍は合流できない。
政宗が旗本と不断鉄砲にて畠山勢を攻撃し、伊達勢優勢に展開するも昼過ぎに互いに兵を返した。
この夜、大内定綱はひそかに小浜へ脱出。この後、小手森の守将は小野主水・荒井半内となる。
伊達軍も5里ほど引き上げ、野陣。夜襲を警戒したが恙無く夜が明けた。

 25日。
この日は小競り合いで一日が過ぎる。援軍と城内との間に通路があり、そのために堅固なのであろうと推測された。

 26日。
再び城への攻撃を開始。片倉景綱の提案で鉄砲をつるべ撃ちするが、城内は取り合わない。
3泊目の野陣となり、今後の攻撃方針について軍議がもたれた。
成実は自軍を城の南・竹屋敷に移し、田村勢と合流、援軍と城内の通路を絶つことを提案する。
政宗は「竹屋敷に移れば、援軍・籠城軍両口の合戦になる」と案じるが、成実は「田村軍との合流を優先すべき」とする。両口の合戦は成実勢、田村勢が引き受ける。敵の援軍は地形が悪いゆえに大きな働きはできないとの心算である。
原田休雪はそれに対し、「そこまで危険を冒さずとも、長期間の包囲により落城する」と慎重な意見。
両方の意見に支持者があったが、衆議は一決せずそのままお開きとなった。

 27日。
明け方、成実は政宗に無断で陣を竹屋敷に移動。留守政景がこれに続き、報告を聞いた政宗は全軍を竹屋敷方面へ移させる。
そこへ城内より石川勘解由というものが、成実の郎党・遠藤下野と話をしたいという。この二人は日ごろより親しい仲である。
成実が遠藤下野を遣わすと、
「援軍との通路を封鎖された上は、落城疑いない。成実を頼んで城を明け渡し、退散したい」
とのことである。
報告を受けた政宗は、「伊達家へ降るならばOK」との回答。
しかし石川勘解由ら籠城勢は「退散するのは命乞いのためではなく、大内備前と滅亡をともにするためである」と小浜への退散を望む。
政宗はこれを拒否。敵の望みは図々しい。手並みのほどを見れば降伏するだろう、と総攻撃を開始する。
困ったのは使いのため城内に入っていた遠藤下野である。味方の猛攻の中を小旗を振りながら決死の覚悟で脱出。辛うじて陣に帰り着いた。
この後、成実の陣より城に火をかけると、強風の日であったので城のあちこちが燃え始める。そのためか籠城勢は意外に早く抵抗を失い、落城する。
政宗はなで斬りを命じ、男女はいうに及ばず、牛馬の類まで切り捨てられた。

参考

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